過去のコラム

2012-C010

 人間は時になぜこの世に生まれ死んでいくのだろう、と取り留めもない事を考えてしまうことがある。しかし他の生き物はそんな疑問を持たず、日々懸命に自分達の子孫を残そうと努めている。
 主にカナダで生息するミズダコの雌は産卵を終えた後も食事を摂らず卵を守り続ける。そして孵化を見届けた母ダコは力尽き息絶えるという。また植物も様々な工夫を凝らしたつくりをしている。一般的な花を想像してみても、真ん中に生殖器官を従え、花弁やがくがそれらを守るようにして備えられている。
 このように、あらゆる生き物は本能や習性から賢く、時には自らの身を削り種族繁栄に努めている。ところが人間には本能的な種族繁栄の概念があまりないように感じられる。出産するか否かは個人の自由であり、また「子孫を残そう!」という使命感より「子供がほしい。家族を作りたい。」といった思考的・感情的な部分が多く含まれる。そして生き延びてゆくすべとして教育を受け社会へ出ていく。他の生き物が本能や習性に従い淡々と生きているのに対して、人間は色々な感情の中で渦巻きながら生きているのだ。
 そんな自然とかけ離れた場所で生活し、感情という特殊な能力を持った私たちにとって、生と死の意味を問い、さらに自分の存在意義を追い求めてしまう事は人間として生まれた宿命なのかもしれない。

(小林 桃子)


2010-C009
怒りの特効薬

 何かに怒りを感じている時、怒りの原因がその「何か」にあるのではなく、自分の中にあると強く感じる。
 身体の不調、慣れない仕事、身勝手な家族の行状、買い物で入った店の雑な接客から昨今の天候不順に対してまで、心の底でふつふつと怒りを感じている時間が長く、とても疲れる。
 だから、怒るのは知性の足りないバカのすることだと断じている話題の本や、生涯健康でいたければむやみに怒らないのが何より大事という免疫学の先生の本を読んでは、ひれ伏すような気持ちになって今後一切怒らないでおこう、と何百回目かの決意を繰り返す。

 クリシュナムルティの言葉の中にも、「怒り」を抑える方法が隠されているのではないかと、著書をめくってはみるものの、当然ながらそんな特効薬みたいな言葉は見つからない。
 むしろ特効薬を誰かの言葉の中に探している時点で、もうあなたは怒りからは自由になれないよと諭されている気分になる。

 「あなたは全存在で怒りに気づきます。その時、怒りはあるでしょうか。不注意が怒りであり、注意深さは怒りではありません。ですから、あなたの全存在による注意深さが全体を見ることであり、不注意とは特定のものを見ることなのです。全体に気づき、特定のものに気づき、そして両者の関係に気づくこれが問題の全てです。」(J.クリシュナムルティ『自己の変容』松本恵一訳)

 「全存在による注意深さが全体を見ること」というその意味が、実はよくわからない。

 わからないけれど、今自分が相当に不注意で、それが怒りだけでなくあらゆるマイナスの感情の存在を許しているのだと思う。
 怒りに対する特効薬はどこにもないけれど、今の自分の行動や感情の全てを注視することが、おそらく一番の薬なのだ。

(鈴木 みれい)


2010-C008
自己破産の果てに

 近年借金問題は日常的になり、自己破産をする人が増えているという。会社経営者、一般庶民、はたまた法に携わる人でもお金に苦しんでいる人がいる世の中。

 つい先日、知人のMさんは自己破産の申し立てをした。
 借金の始まりは些細なこと。次の給料日までの僅かな数日を乗り切る為に、1万円をカードでキャッシング。3年後には300万迄膨れたとの事。勿論膨らむには使っていたからなわけで、増えていく借金もクレジットカードも、自分のお金と言う認識が強かったという。
 自分の欲が赴くままに借金を重ねたわけでは無かった。家族の失業、保証人、様々な困難がMさんの歯車を狂わせた。結局借金地獄から抜け出せず自己破産を決意した。
 当初、自己破産で借金から解放される精神的余裕に、Mさんは心を潤わせたという。しかし裁判所へ出向く前日、恐怖と孤独に苛まれたMさんは改めて自分の人生を振り返る。年齢は33歳、独身。自分の欲とわがままに任せて欲しいものを手に入れてきた。どうしてこんな事に、こんな風にしか生きれなかったのかと。
 自己破産と引き換えに得たものは、誰にも話せない孤独と諦めだったという。Mさんは借金を返済するまでは死ねない、そう思って日々生きてきた。それが無くなった今、生きる意味を33歳で見失い、ただ足元を見ている。

(中村 さちこ)


2010-C007
『死』から私を見つめ直す

「毎日死んで更新されるところに再生がある。(中略)死の中に不滅がある。といってもあなたが恐れている類の死ではなく、以前の結論や経験などを勝手に『私』と思い込んでいる、その『私』の死なのである。」とKは語る。
 では、『死』とはなんだろう。毎日の『死』とは。毎日どころか一瞬一瞬に自分の感情が変化しているのは感じる。しかしそれは『死』によって自分の感情が再生されているのではなく、外界や記憶からの刺激に反応して脳が感情を変化させているに過ぎないのではないだろうか。(つまりは思考の働きだ)
 それでは、自分や他人にたいする認識がさまざまな要因により変化すること(自分の意外な面に気づいたり、ちょっとしたことで他人に好感をもったり、その逆であったりと)があるが、これは自分の『死』による再生と名づけていいのだろうか。それとも脳のいたずらにすぎないのであろうか。
 『私』自体が脳の生み出す錯覚と仮定するなら、『私』が変化しているのではなく、常に変化し続けているものの一部を取り出し『○○な私』と名づけているにすぎないのかもしれない。となると『死』も『再生』も真実の世界ではありえないこととなりはしないだろうか。しかし、『私』への囚われから抜け出せない自分がいる。

(中尾 文彦)


2009-C006
『「私」は「記憶」にすぎない』について


自分が「私」だと思っている存在は記憶から成り立っているだけで、記憶に頼らなければ「私」はなくなってしまう。
 “あなた自身が完全にいなくなったとき、そこに美が存在する。”(クリシュナムルティ)
 しかし、ひとが自分自身の存在を確かめたくなるのは何故だろう。自分自身を、自分の手で傷つけてまで「私」が在ることを確かめようとするひともいる。「私」がここにいる、と確かめられると安心する。痛い痛いと叫ぶように「私」が湧き起こると、それが「私」を実感させるようだ。何故そうまでして自分を確かめたいのか。『「私を感じる」=「生きている」』からか。肉体を動かせているあいだ、ひとは「生きている」と感じていたいものだろう。
 「私」が存在しなくなったとき、同時に私は「生きている」という意識からも離れている。一人ひとりの記憶を必要としている社会では、記憶から成り立つ「私」を必要とし、それがあるからこそ、社会で生きていると感じる。生きていると感じなければ、自分はどこにいるのだろう。「私」が「生きている」というのは、社会が必要としていることで、社会にいなければ「私」も、「生きている」も、必要でない。死の世界、あるいは、何もない世界。記憶でしかない「私」は、「何もない世界」を失っているのかもしれない。

『「私」は「記憶」にすぎない』は2009年6月28日に行われた講演会です。

(馬原 良子)


2009-C005

なぜ、今しかないのか。
いま、と言っている間に今は通り過ぎてしまう。そこに意識すればするほど、考えれば考える程、今から遠ざかる。けれども考えねば何も表現できないし、表現しなければ自分に根付かないので、自分が精進しない感じがします。なぜ、 今しかないのでしょうか?

岡本太郎は瞬間を生きろ、と言いますが、クリシュナムルティは瞬間さえ否定します。 雷が落ちた瞬間を私たちが知覚するのは容易いですが、連続している今を把握するのは本当に至難の業です。例えばこうして、学習した文字を使用できるのも過去のおかげですが、これは過去に生きていることではないのでしょうか。生きることは今でしかない。それならば、生きる事とはどういうことなのでしょうか?今という時間を生きている人は過去と未来の隔てが無いので、時間軸も気 にならないそうです。ならば、人生は知っている事を塗りなおしてゆくだけなのでしょうか? こうした疑問は彼の本を読むときによぎります。しかし、クリシュナムルティは否定しかしてくれません。何を言っても「本当にそうなのか?」「違うのではないだろうか?」と問いかけ、結局否定されます。そんな不親切な言葉のなかで、ひとつ仮説が浮かび上がってきました。私の考えはこうです。

今とは開き直りなのではないでしょうか。例えば先ほどの、言葉を使うことがもう、過去を生きているということだけれども、伝えたいし、相手の言う事も聞いてみたい。ええい!過去でもいいや!この!えいや!とそれでも言葉を使ってみる。ほかにも書いてみたり、自分で考えたりしてみる。それが駄目だとしたら、駄目なときがいいときなのだから、なお、いいや!と開き直ってみる。開き直りの連続。つまり、過去の否定から、開き直って肯定してみる。そうなると、今とは…なんて考えなくても今を生きている。

(大橋 正教)


2009-C004
選択のない自由

選択は、すなわち混乱を指していることは事実ではないですか?
「どうしてそうなるのか、わかりません。」
「我々は選ばなければなりません。選択なしでは、自由はありません。」
あなたはどのようなときに選択をしますか?ただ混乱の中から選ぼうとするため、
あなたは「確信」が持てないのです。
それらが明晰であるとき、そこに選択は存在しません。

J. クリシュナムルティ
Commentaries on living, p. 104

どちらにしようか。あれがいいか、これがいいか。
事態が悪化しないように、より良い結果をもたらすように、私たちの思考は、次にはどう行動するべきか?と一日中あたまの中で繰り返している。

“選ぶ”という行為は、人間にとって自由を感じる瞬間であり、日常生活においても、そのよろこびと質を向上させるための手段と考えられている。

では、もしも私たちに何かを選択するという権利がなければどうだろうか。
「嫌な仕事も避けることができず、好きなものを選びとることもできない。」と不自由に対する不満を抱くだろう。さらには、誰かに支配されているような不安と、怒りを感じるにちがいない。

けれどもKは、選択のないところに自由があると言う。
何かを選ぶという場面において、その主体は常に我々の思考である。
考えてたどりついた道は永遠に、真実へとつながることはない。

思考の働きが止むとき、目の前に歩むべき一本の道がおのずとあらわれる。
もう、次にどうするべきかと悩む必要はなく、過去の経験から答えを推測することもない。真実への道は、予測や知識も必要ない。そのとき、あらゆる選択肢は消え去り、完全な自由が訪れる。

(伊藤 あゆみ)


2009-C003
意識の行動

頭の上に拡がる大空をじっとみつめる。
雲ひとつない快晴だと、静止した世界と向き合うことになる。
一片でも雲があると、その動きに目がとられる。背後に在る、深くて大きい空は希薄な存在となる。
動いているものに注視する猫の目のように、ひとの目にも、動いているものへの関心を優先させる仕組みが備わっているようである。
行動するひと。静止するひと。この対極のモードを比較するとき、「行動」は積極的な生命力を示し、「静止」は消極的な生命力を象徴しているようにおもえる。
もっと単純ないい方をすると、「行動」のひとは、「静止」のひとよりも役に立っていて優れたひとである、という評価が世間では行き渡っているのではないか。
お金とエネルギーを浪費しながら、名目だけ立派な仕事に、わがままな欲望を満たしているだけの政治家や文化人の行動を「積極的」と評価するのが世間である。

ひとが、病や老いによって、寝たきりになったとき、「行動」の力が失われ、役に立たない生き物になってしまう。家族の重荷になった、と受け取られる。
あなたの体が動かなくなったとき、あなたの生は活動を休止してしまったのだろうか。生物学的には生存していても、社会的な死の状態にあると決め込んでいいのだろうか。
そうではない。生をもっと深く理解しようではないか。
意識の活動は、ひとつの「行動」である。10年前のある日、ある場所での出来事を思い出すあなたは、そのとき、そこに「在る」。
ある人を思い、その人に会っている光景を想像するとき、あなたは、そこに「在って」、その人と会っている。
真夜中にベッドの中で、昼間にいた職場で忘れ物に気づいたとき、あなたは、その場に「在る」。
生は意識の在る場において完全な働きを為している、とおもう。
この意識の行動力は、世界の政治状況を刺激し、経済活動をめぐる心理に多大な影響を与え続けている。

平和や愛という高度な抽象思考をしているときの脳は、激しい運動時に快感誘発作用をもたらす神経伝達物質で知られるドーパミンを放出するといわれる。文字通り、「意識の運動」が起こっているのである。
寝たきりで身体運動のみえにくい生命が、沈黙の中で、いかに大きな行動を、強力な愛の作用を実践しているか、見落としてはならない。

(森本 武)


2008-C002
ひとは常に、答えるのが可能な疑問をかたっている。もし答えるのが不可能な疑問をもったなら、可能性においてではなく、不可能性において、頭脳は答えをみいださなければならなくなる。

J. クリシュナムルティ 『不可能な疑問』

魚は海や川に住み、海水や淡水があたえてくれる恩恵に守られて生きている。
視点をかえていうと、魚は生息する場の水に制限されている。
つまり、水は魚に生の可能性を与えている。もし魚が、水のない大地に移動する願望をいだいたなら、みずから生命の可能性を広げる挑戦に出なければならない。しかし、魚には可能性という理解がないから、不可能への挑戦を思い立つこともない。
ひとが不可能と理解したとき、それを断念するか、夢という想念に仕舞い込んでなにもしないか、のどちらかになるだろう。
可能性は頭脳の納得の世界にあるが、不可能性はそこから外れている。不可能から生じる答えを手にしたひとは、ついに可能性を超えた存在に進化したといえるのではないだろうか。

※本稿は、「News Letter vol.2」 として過去に配信されたものです。


2008-C001
あなたは何を知っていますか?
命のないもの、過去、去ったもの、終わってしまったものなどを知っているだけで、いま生きているものを知らないのです。

J. クリシュナムルティ
Allen W Anderson博士との対談、カリフォルニア、1974

新鮮なものを何も知らない頭脳。後の祭り。ビデオで観る野球試合。
この世を去った人に対する取って付けたような賛辞。やりたいことをやりきった後の反省。これらはすべて「今」においては無意味です。
知っているというのは、済んだことから離れていない、自由になっていないという状態なのです。知っているから、そのように縛られている。知っているから、過去の世界に生き続けている。

あなたが自由であるとき、あなたの「知っているもの」の働きは休止していて、なにかしっかりした根拠とか理由は全くなく、今という時間を散策している歓びだけになるのです。
なにも持っていないことからくる安心と安定は、絶対的なものなので、ひとつやふたつの根拠のある安全や確信とは比べようのない透明性をもっています。この透明性が、時に、不思議な光景をかいま見せてくれるのですが、それは実用に利用しない方がいいかとおもいます。

※本稿は、「News Letter vol.1」 として過去に配信されたものです。

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