# 01
「ひとは、本来、幸福


しっかり考えれば、何事もうまくいく、という信仰が、人類世界を支配しているようにみえる。問題は思考力だ、という確固たる認識である。ひとの評価も思考力のあるなしが最重視されている。

他の生物にはない学校教育という営みが、考えることの重要性を繰り返し強調するものだから、「考える力=生きる力」という等式が出来上がったようだ。

思考力に優れた学生を集める学校は名門校と賞賛され、その卒業生たちは社会で大いに歓迎され、重要なポストに就き、政治、経済、文化等の領域のリーダーとなって、とても大きな権力を行使している。

いうなら、人類社会を実際に動かしているのは、必ずしもこころやさしいひとでもなく、多数の幸福を優先して行動するひとでもなく、なんとしても戦争は避けたいひとでもなく、優れた思考力が認定された頭脳優位の人たちなのである。

思考力重視に、国も、言語も、肌の色も、違いはない。

にもかかわらず、思考がはたして人類を真に幸福にしてきたのか。これはとてもビッグで深刻な問いかけだ。なのに、真剣に思考が俎上にのぼることは稀で、その思考の産み出すものに意識がすっかり占有されているのだ。

「思考」と「幸福」の関係を問うとき、幸福をどう定義づけるべきなのか。

私は、幸福とは、幸福感を感受している状態、と考えている。金に恵まれているとか、百%健康とか、家族の愛に恵まれているとかの付帯的環境要因で決められるものではないとみている。

幸福感は、生命の存在のみを唯一の必要要件とする状態である。もっとも当たり前な状態、つまり常体は「幸福を感じている」ものなのである。それが個体生命を支配している限りにおいて、そこに幸福があるのだ。

この幸福の定義から、幸福感の生起を邪魔するものがなければ、ひとは常に幸福であり、幸福感を維持し続けられる。その邪魔物の中でももっとも厄介な働きが思考なのである。思考は、幸福感の生起を邪魔する不安づくりが得意なのだ。

その論拠は、こうである。幸福感は生命の基本的属性として、本源(光)から湧き上がっているものなのに、思考の働きは、それを覆い隠す概念の暗雲をつぎつぎと生成し、その感覚を消失させるのである。知識を作動させて、わざわざ危険や困難という概念を鮮明に映像化し、ひとを不安にさせる。そもそも思考は、過去の知識や経験に制限されており、不自由さの自覚を生命に常に伝えているのである。

2019.12.3