Kの生活塾 【会員限定】

カリキュラムはこの上なくシンプルな構成。科目はただ一つ、『安心の人生学』のみ。とはいえ、その学習内容は幅広く、「生命」、「お金」、「芸術」、「ことば」、「欲望」、「思考」、「仕事」など多面的な観点から安心の人生を協働して探る。
年齢、人生経験、学歴、国籍を問わず、K's Point会員なら誰もがいつでも入学できる大人の学校。

Kの生活塾 見出し

グレー枠

・開講回数:年4回
・開講日時:午後1時〜4時(途中休憩あり)
 ※開講日時はやむを得ない事情により変更される場合があります。
・場所:嵯峨美術大学
・参加費:
1)1回単体受講:1,000円 
 (支援会員:500円/学生会員:無料) 

2)4回まとめ払い:1,600円
募集期間:毎年度、5月1日〜8月1日までの3ヶ月間

・ご予約方法:
毎回、開講日の前日までにkspoint1998@yahoo.co.jpにお申込み下さい。


Kの生活塾2017 まとめ払い

参加費は、1年分をまとめてお支払いいただくと大きな割引となります。
メールでお申込みいただくか、イベント参加時に受付でお申し出ください。

2017年度スケジュール  

2017年6月24日(土)
第33回 『「ありのまま」でいい?』

どこまで余分や飾りを剥ぎ取ってやれば、素の姿が現れ出てくるのだろう。無知の弁解は、「ありのまま」ではない。

2017年10月1日(日)
第34回 『部分に秘められた真理』

全体は部分の集合体という素直な論理に従えば、部分の役割が見えると全体を立て直せるはず。実はそうならないのは、部分の中に全体を見ないからだ。

2018年1月20日(土)
第35回 『老い』

避けられない時間の進行の制止。それとともに進む老い。この変化を利益創造に結びつける生き方はないか。老いは進化する霊の味方である。

2018年5月13日(日)
第36回 『無責任と無関心』

これらの二つの要因がガッチリ手を組んだ人生とはいかがなものか?世間の枠外に生きる輩になるだけか。それぞれ積極的に利用できる要素もないではない。

過去の配布資料のPDFデータをお送りします

【会員限定】
「Kの生活塾」では毎回、テーマ探求の足がかりになるよう、資料(A5サイズ・5ページ程度)を配布しています。
2014年度(全6回分・39ページ)、2015年度(全4回分・27ページ)の配布資料をそれぞれまとめたPDFデータを、希望する会員の方に送らせていただきます。
ご希望の方は、kspoint1998@yahoo.co.jp までご連絡ください。


<< サンプル(PDF)
2015.5.17 Kの生活塾
第24 回 『ひとはなぜ生きるのか』

【おことわり】
「Kの生活塾」は、その場で生じる対話を重視しており、資料はいわゆるテキストと呼べるようなテーマの説明文書ではなく、塾における議論に資料を提供する、気まぐれで断片的な情報にすぎません。


PDF形式のファイルをご覧になるには、アドビシステムズ社より無償で配布されているAdobe Readerが必要です。 お持ちでない方は下記よりダウンロードしてご閲覧下さい。


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■【サイレント・シート Silent Seat】
サイレント・シートは、発言を控えたいときにご利用いただくものです。
イベント時(講演会等を除く)は常に会場の受付に、「Silent Seat<発言は控えます>」と書かれた札をご用意しています。ご自由にお持ちいただき、ご自身の机の前に設置してください。主催者から意見を求められることはありません。

サイレントシート<以下のような方はご利用ください>
・話すのが苦手
・見学のみを希望する
・体調がすぐれない
・発言をする気分でない


過去のテーマ

2016年度

2017.5.14
第32回 『小さな不幸と大きな不幸』
生きる目的のひとつに、いや全てになっていると言ってもいいのでしょうが、幸福の実現があります。
その意味で不幸ほど人間を落胆させるものはありません。日々、不快な出来事に遭遇しつつも、気持ちのいい体験も味わえるのが、ふつうの市民の生活というものです。
不幸の実体を知り、その虚構性を見出したなら、それは存在根拠を失い消滅するにちがいありません。不幸のない生活は、その意味で人生の真相に目覚めた生活といえるはずです。

2017.1.21
第31回 『後悔の正体』
ひととのふれ合い、などという表現をだれもが軽々しくつかうのだが、肌のふれ合いよりも、言葉をとおしてのふれ合いが主流となる現実がある。
その日々の現実において、言葉を、音声のやりとりに終わらさず、ふれ合うという実感にまで持ち上げて、話し、聞くだけの誠意を、あるいは忍耐を、あなたはもちあわせているだろうか。

2016.10.1
第30回 『話す/聞く』
ひととのふれ合い、などという表現をだれもが軽々しくつかうのだが、肌のふれ合いよりも、言葉をとおしてのふれ合いが主流となる現実がある。
その日々の現実において、言葉を、音声のやりとりに終わらさず、ふれ合うという実感にまで持ち上げて、話し、聞くだけの誠意を、あるいは忍耐を、あなたはもちあわせているだろうか。

2016.6.26
第29回 『思い出とのつき合い方』
過去の光景や体験は、時に、甘く、時に苦く、今によみがえる。
ロマンチックな思い出は人生の味付けとして欠かせない、とひとは考える。
しかし、その甘さや苦さに、関わりを深めていると、今はいずこかに消失し、過去が今を支配する人生になる。
「思い出」を甘美な体験情報とするわがままな意識とどのように付き合うべきなのか。


2015年度

2016.5.15
第28回 『なぜ人間は「今」に生きられないか』
「備えあれば憂いなし」。
そこで、「預金残高を増やせ」、「生命保険に入れ」、「健康診断は毎年欠かすな」、「冷蔵庫のストックは常にチェックしろ」などと、備えに追われる。
世の健全な市民の大部分は、明日に備える日々を堅実に生きているようだが、「今」はどこにいったのだろうか。
将来に不安をかかえる自分は、事実として「今」にいる。ここに気づかないと、人生まるごと無駄におわるのではないか。

2016.1.16
第27回 『安上がりで高貴な暮らし』
貧乏暮らしを楽しむひとの中には、自己の尊厳をかなぐり捨てて、卑屈な精神に甘んじるひともいるようです。
安価な暮らしが貧相な暮らしでしかないなら、気がめいります。
今回のテーマの鍵は「高貴」にあります。暮らしを高貴に保ちつつも、安上がりにすごせないものでしょうか。

2015.10.3
第26回 『神秘的な力に出会う』
「不思議、大好き。」という西武百貨店のコピーが80年代、一世を風靡したが、常に人類は不思議に引き寄せられている。
大部分のことは、知ってみれば不思議ではない。となると不思議は無知からやってくるのか。
心臓が自動的に動いている仕組みも、こころの気まぐれな働きも、奇想天外な夢の創作者の存在も不思議である。
神業で説明をつけられるとしても、それは、何ゆえに姿をみせず、隠れているのだろうか。そこに神秘の力があるような。

2015.6.14
第25回 『わたしの中にみる自然』
わがままな自分に、ふと気づく瞬間、自分の意志とは違う意志が存在しているように感じる。
身体生理の活動の反応であるか、他者の心からの伝導であるか、大宇宙の片隅から発された太古の魂のつぶやきか。
内なる世界における、あまりにかすかな「自然」の活動をもっと理解したいものだ。


2014年度

2015.5.17
第24回 『ひとはなぜ生きるのか』
生きる意味や理由を知って生きているひとがどれほどいるだろうか。
生き続けることが苦しくなったときにかぎって、「なぜ生きる必要があるのか」との問いを自分に突きつけたくなるのだが。
この問い自体の空虚さを考察すると同時に、生の実体に対して、われわれはどのような態度をもつべきなのかについても真摯に語り合いたい。

2015.3.28
第23回 『正直な自己表現のもたらす結果』
自己表現は、自己の存在への慈しみから、きっと出てくるのだろう。主張の強弱はあるが、つぶやき、言い訳、自己の賞賛、訴求、批判など多様なかたちをとるものだ。
もし仮に真実そのままの自己が表現されるとして、それが本人に一体何をもたらすといえるのだろうか。

2015.1.18
第22回 『自分が感じる「限界」の真偽をさぐる』
空を飛べない自分に失望、絶望する人間はいないだろう。
人間は訓練で鳥になれない。そこを納得している「限界」は問題にならない。
何かを諦めたり、なにかに失望したとき、そういう状況をもたらした原因を、他者や、その時点の諸条件に見出すのではなく、自分の能力不足や人間的未熟さに求める場合が少なくない。
自分の「いたらなさ」。自分の「無力」。
確かに、それらが解決をもたらす障碍としてあったのかもしれない。
それにしても、自分の「限界」を、ひとはどのように認識すべきなのだろうか。

2014.11.8
第21回 『ひとはどうしてひとを教育したくなるのか』
先生という仕事にかぎるものではありません。
親は子に、上司は部下に、先輩は後輩に、なにかと教えたくなり、教えておかなければならないと考えてしまいます。
人間はどうしてこんなに教育したがるのでしょうか。
教育すべきことを増やしてしまったのでしょうか。
そして、その結果である現在の人類は「うまくいっている」のでしょうか。

2014.8.17
第20回 『家族という関係の独自性を考える』
「ひとりの人間とひとりの人間が共に生きている」、あるいは、「幾人かの人間がなんらかの関係をもって、生きている」としよう。
これらのひとがただの集団であるときと、「家族」と呼ばれるときとでは何がどう違っているのだろうか。

2014.6.7
第19回 『「こわれた人生」をどう修復するか』
ごめんなさい。コップや時計みたいに人生が語れるとはおもえないけれど、なんだかうまくいっていないポンコツな生き方っていうものがあるものです。部品交換できる時計と、人生は違う。さてさて、修理にはどこからとりかかればいいんでしょう。


2013年度

2014.4.19
第18回 『対話』
自分という固有の生命と、自分でない他の生命との違いは大きい。「人間だもの」とくくれない違和感が歴然と存在する。
その「違い」を乗り越える手段のひとつが対話なのだろう。
とはいえ、おしゃべりは対話ではないし、言い争いも対話ではない。聞き合う関係が成立していなければ対話にならないからだ。

2014.2.16
第17回 『怒り』
路上で、偶然、怒っている人に出会ったとする。自分に向けられた怒りでもないのに、強い不快なエネルギーが周囲に放出されているのを感じるだろう。
怒りは、それが向けられた相手以上に、発した当人の心身をひどく傷つけるエネルギーである。「私」に内蔵する凶器なのだ。

2013.12.24
第16回 『野心』
生き辛いこの世に生きている、けれども、それだけではダメだ、といつか誰かに言われたような。
目立つ成果を上げないと人間としての価値がない、と考え出したのはいつ頃からか。
人生をレース(競争)に例えたとき、その金メダルを獲るには野心が不可欠なのだ、とこれまた誰かから聞いたような。

2013.10.12
第15回 『笑い』
アリストテレスは「笑う動物は人間だけだ」と言った。身近な動物の悦ぶ姿にふれることはあっても、それらは「笑い」ではない。が、猫や魚の表情にも、はては車両の正面や雲の形にも笑顔を読み取ろうとする人間の不思議。そのこころの源に何があるのか。

2013.8.10
第14回 『選択』
苦の多くは迷いからくる。迷いは、主として、選択の問題である。あれかこれか。決められない。
なぜ選択できないのか。生の現場における正解とは何か。
「選択」という行為に秘在する、決断力および理解力の働きを究明したい。

2013.6.1
第13回 『嫉妬』
自己の向上という欲望が、時には、他者との比較という思考のおせっかいな動きにからまって、他者を羨望するという厄介な感情を産みだすものである。
女偏の二文字は、男たちの恨み節の反映なのか。女の自嘲的告白の結晶なのか。
いずれにしろ、嫉妬をかかえた人生には陽があたらないのは明らかだ。


2012年度

2013.4.13
第12回 『論争』
地上に論争はあふれている。
主張のぶつかり合う光景を、いたる所で目にする。
主張の背後には利害が存在するので、実は利害がぶつかっているのだ。プライドも、信念も、嗜好も、利害を含みもって、論争を産みだす。
大部分の学問上の論争や宗教上の論争は、真理をめぐる違いの衝突に見えても、やはり利害から完全に解放されてはいない。
そもそも、ひとが論争から得られるものとは何なのか。

2013.2.16
第11回 『待つ』 
予定されたものが頭の中にあって、それが現実になるまでの時間を密度の高い自覚をもって見つめ続けるとき、「待つ」行為は大いなる意識の負担になる。
予定されていたものが、完全に忘れさられていたら、「待つ」は消失し、待つ「予定」も待つ「人」も存在しなくなる。

2012.12.8
第10回 『依存』
さびしさ、心もとなさをかかえて生きる人間を描く文学や映画、あるいは音楽に、ひとはこころを強く揺さぶられる。
人間の弱さへの同調、共感が容易く生起する。
人生の陰や心情に寄り添ってしまえば、依存は正当化できる。
「アルコール依存」や「ギャンブル依存」「買い物依存」などの症候は病気として知られるが、「知識依存」、「資格依存」、「人類愛依存」、「保険依存」など、ひとの陥っている中毒は多様なので、いくらでも病名はおもいつく。
ひとはなぜ依存にかたむくのか。支えにみえる依存の底に眠る破滅の種に気づいていないのではないか。

2012.10.13
第09回 『クリシュナムルティへの疑問ーKのここが分かりにくい』
「K の言葉は分かったような分からんようなのが多い。」
「実際の人生にどれほど、また、どのように役立つのか、分かりにくい。」
「K はあまりにも特別な人間で、われわれ凡人が、そんなひとの言い分を理解できるはずがない。」
そんな思いを、よく聞かされます。
今回は、これまでに取り上げてきたK の重要語も含め、どこが分かりにくいのか、本当に意味のあることをK は語ってきたのか、といった率直な疑問を雪合戦みたいに快活にぶつけ合いたいとおもいます。

2012.8.25
第08回 『記憶』
ひとは、記憶という時間の中に人生を展開している、といっていい。
言語、習慣、社会制度等として蓄積された知識を駆使しつつ、過去の個人体験をひんぱんに再生しながら、日々を生きる。
しかし、個人のレベルにおいても、集団のレベルにおいても、記憶への依存がこれほどまでに大きなものになっているという事実に多くが気づいていない。
愛も、生命も、幸福も記憶の中には存在しないのに。  

2012.6.23
第07回 『読書』
校庭の片隅で、ひとりベンチに座って読みかけの本を鞄から取り出す。
だれかが、自分の行動を見つめているようにおもえて、様になる座り方を意識する。
私は、この本をなぜ選んだのか。その理由を知らない。
どんな姿勢で本を読むのか、それが問題なときに、私は明らかに本に無関心な心に出会う。
2千年以上前にだれかが思いついた話が、21世紀の工場で本として印刷製本され、私の手でつかまれている。

2011年度

2012.4.28
第06回 『人と人との間』
人である「私」は、他の人に「私」を重ね、落胆し、安心し、また、共鳴したり、反発したりする。
人と人の間に何があるのか。
それは空気。
それは愛。
それは気配。
それは断絶。
それは人生。
それは空虚。

2012.2.25
第05回 『日常の作業』
使い慣れた道具を、慣れ親しんだ場で使う日常の仕事は、生きている時間の「主役」といいたくなる。
こころは、常に、全方位の運動の中にあるので、この日常の至福を常に見いだせているわけではない。
作業に見出されるささいな歓びは、慎ましい日々にも「偉大な栄光」が眠っている証ではないか。

2011.11.26
第04回 『美』
美。
その質に触れ、生は歓喜する。
それを求め、生は努力する。
それに照らされて、生は開花する。
それに押し倒されて、生は畏怖する。

2011.9.10
第03回 『道徳と社会正義』

あるべき人間、やるべき行い、守るべき規範などの「正しさ」を、ひとは教え込まれて、社会の秩序の維持に努力してきた。
このとき、われわれは、一体何に従っているというのだろうか。
真に、この社会に根付いてきたものは何なのだろうか。
個のわがままを許さず、集団への従属が賞賛される「正しさ」を検証したい。

2011.7.23
第02回 『娯楽』

苦楽の日々を生きるわれわれにとって、「楽」はありがたい時間。
息抜き、リフレッシュメント、快楽をとおして自分を立て直そうとするわけだ。
少しでも楽をひろげて、苦を押しやりたいのが人間。
人生における娯楽の意義を問う。

2011.6.18
第01回 『生きる時間』
一生という不可視の枠の内で「私」は闘う。
あるいは、愛する。あるいは、嘆く。あるいは、さまよう。
時間は「私」の味方なのか。


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