講演会

日常で我々が常に直面していながらも、なかなか明確に捉えることが難しい課題をテーマにとりあげ、クリシュナムルティの思想をベースにしながら、人間の実体と人生の存在意義に対する理解を深める。
クリシュナムルティの思想についての予備知識は全く必要としない。

講演会_会場風景

 

過去の講演会

▼話し手は、K's Point代表の森本武がつとめています。
  (主催表記のあるもの以外は、K's Pointが主催)

2017.4.16(SEWING GALLERY)
祈りの効用と実用的方法を解明する
祈りは、気休めの手段ではなく、ヒト・コト・モノを動かす確かな力です。祈りは、また、自己を立て直す最強、最善の営みでもあります。祈りをたんに神秘化するのではなく、その作用を日常の感覚でも理解できる原理・法則などによって徹底解明し、実用的な手段としての祈りの活用も分かりやすく示したいとおもいます。


2017.2.12(マニホージュ)/マニホージュ主催
祈りは、効く。


2017.2.10(iTohen Books Gallery Coffee) /iTohen Books Gallery Coffee主催
『場 the point で出会う意識の探求 〜芸術編〜』
つくるひとの意識が、美の生成であったり、驚きの創造であったり、「内から出す」という運動に傾いている一方、観るひとの意識は、物質的感触から品評したり、自己との異質性の確認という「外からの受け入れ」作業の方向に活動している。
その「場point」にただよう意識を、種々の視点から徹底的にみつめてみましょう。


2016.11.26(古心庵)/古心庵主催
なりゆきに生きる。
二つのことを、いっしょに考えたいのです。
ひとつ、頭(思考)は信頼出来ない、という事実。
ふたつ、生きているという姿は、動いているようにみえて、永遠の「今」という一点でジッとしている、という実体。
この二つを一つにするのが、沈黙の「知性」なのです。これは、「今」を常に感知している優れもので、じつに頼りになる。
この「知性」で生きると、「なりゆき」に徹底服従できるから、安心の人生になるはずです。

2016.11.13(ハートンホテル京都「宇治」)
祈りは、効く。
祈りは、気休めの手段ではなく、ヒト・コト・モノを動かす確かな力です。祈りは、また、自己を立て直す最強、最善の営みでもあります。祈りをたんに神秘化するのではなく、その作用を日常の感覚でも理解できる原理・法則などによって徹底解明し、実用的な手段としての祈りの活用も分かりやすく示したいとおもいます。


2016.4.29(iTohen Books Gallery Coffee) /iTohen Books Gallery Coffee主催
『「好き」を究める —J. クリシュナムルティから学ぶ脱頭脳的生き方』
自分の好き勝手は極力表に出さず、会社や家族のために生きていくのが、大人の証とみなされているような社会があります。
しかし、「好き」をほったらかしにしておいて、真に自分が生きているといえるでしょうか。
リアリティーを知る力をもたない思考に依存した人類の文明・文化を批判しつづけたインドの哲学者J.クリシュナムルティのことばを手がかりに、このテーマをみなさんと共に探求したいとねがっています。


2016.3.6(キャンパスプラザ京都)
非医学的認知症考 <根源的な知>としての愛の作用に注目!
記憶障害、幻視などを起こす認知症という病気の持ち主が厄介者扱いされています。本人にも、家族にも悲劇的な生活だけが待っているという諦めが広がっています。
しかし、認知力の低下したひとを、健全な個別性をもつひととして認め、心地よい関係を築くことは不可能ではありません。
人間を支配する知性は、脳という臓器に限定されたものではないという観点から、認知症に光をあててみたいとおもいます。


2016.2.13(マニホージュ)/マニホージュ主催
食と霊的健康 in マニホージュ


2015.11.22(阿倍野市民学習センター)
食と霊的健康
栄養学にもとづいた食養は、タンパク質、脂肪、ビタミンなどの物質的な要素をとりあげ、主として肉体の健康を問題にしますが、健康とはもっと大きく、深い概念なのです。
人間は、見える肉体のみならず、見えない多次元なカラダをもっています。それらの不可視なカラダに自己の実体が隠されており、病気の多くがそこから現れ出てきますが、そのように理解しているひとは少ないようです。
今回は、神智学、波動理論、古代ヨガの身体論等の観点から最善の食を究明します。


2015.2.14(星ヶ丘学園 七夕祭)/星ヶ丘学園主催
星の光と「私」の光
真っ昼間においても、天空に数えきれない星が輝いています。
われわれが星を認められないのは、太陽の輝きが一人勝ちで、その他の星を圧倒しているからです。存在していても、見えない。見えなくても、存在しているものは、昼間の星にかぎりません。
人間の中にある光をあなたは見ることができますか。
その光は実在しているのでしょうか、空想の産物にすぎないのでしょうか。
人間存在の根底に目をむけて、この内なる光の存在の意味を探りたいとおもいます。


2015.2.14(マニホージュ)/マニホージュ主催
超越的なる力を知る
日常生活の重要性は、限られた肉体の人生においてのみ語られるものではありません。
日常を生きる、その場に、普遍的な力が常に働いています。それゆえに、その力に助けられること(安楽)もあり、その力に訓練を受けること(苦労)もあります。
われわれの頭脳は、その力の「おもいやり」をしっかり理解出来ていないのです。


2014.10.11(浄土宗大蓮寺塔頭 應典院)
ひとりで生きる。ひとりで死ぬ。
生と死は、コインの裏表。一つのものの二つの面。
死は、生における劇的な解放の機会であり、生の終わりではない。
この世への誕生も、この世からの離脱も、たったひとりの営みとしてある。
それだけに、われわれは、どこまでも、なんとしても孤独に負けることなく、命の光を輝かせなければならない。


2014.9.7(大阪市立総合生涯学習センター)
「お金」というこの世限定の「道具」をどう理解したらいいのでしょう
最有力な道具としてのお金。
欲望を弄ぶ、汚れた道具としてのお金。
幸福、あるいは不幸をもたらす決定的な要因としてのお金。
この不可欠で不可解な怪物を、人間はどう理解すべきなのでしょう。
金融でもなく、経済でもなく、自己理解を深めていく中で
お金の正体をつきとめなければなりません。
是非とも。


2014.3.8(キャンパスプラザ京都)
クリシュナムルティのジョークから学ぶシリアスな生き方(1)
真剣に誠実に生きている人間を、距離をおいて観察すると、コミカルで痛ましい生き物にみえるものだ。Kのジョークには、その距離と、冷徹な愛が含まれている。
“笑うのはいいことです。いいジョークに対しても、自分に対しても。ひとは、こころに悲しみや惨めなおもいを多くかかえすぎていますからね。”
(J. クリシュナムルティ)

2013.9.29(キャンパスプラザ京都)
孤独について
“ひとは空しく、寂しく、孤独を恐れています。そこで、あれこれの手段、たとえば瞑想、宗教、社会活動、マスメディア、お酒、なんでもいいから、気を紛わすのです。けっして孤独を理解しようとはしません。”
(J. クリシュナムルティ)

 コペンハーゲンの運河の脇に置かれたベンチに、読書に没頭する若い女性を見つけたとき、「ひとり」を満喫している人間の美しさに驚愕した。
 孤独は、そのひとが、そのひとである様相をありのままに承認する希有の機会なのである。
 にもかかわらず、常にその孤独を避け、ありのままの自分を遠ざける遊戯に、仕事に、社会活動に逃げ込むひとたちは、内なる静寂を恐れ、他者とのつながりを紡ぐ行為に没頭している。


2013.5.5(マニホージュ)/マニホージュ主催
マニホージュ25周年/移転オープン記念講演

瞑想、それが起こるとき  あなたは、'現実'から'真実'に移行する

2013.3.17(キャンパスプラザ京都)
ホーリスティックにからだとつきあう
近代医療の進歩は大いなる期待・成果と同時に多くのリスク・過誤をうみだしてきたことから、その在り方をめぐって種々の議論が活発化している。
最近、ホーリスティック療法という領域が注目されつつあるが、単純に「ナチュラル(自然)」な方法と同一視され、医薬品や外科的治療などを忌避する方法と誤解されているようにも懸念される。
本講演会では、まず「ホーリスティック」という選択が何を意味するのかという生命の本源に関わる基本問題を考察する。その上で、オイルマッサージを主軸とした生命力再生の事例をとおして、ホーリスティック・アプローチ(技法)を具体的に紹介したい。


2013.2.9(マニホージュ)/マニホージュ主催
生<いのち>を知る
数字や見掛けだけで、生<いのち>の実体は知りようがない。
頭脳の認識力や合理的な計算・推理力ではつかめない生の連続性をわれわれはどのように知ればいいのだろうか。

[イベント報告]
『生<いのち>を知る』
生(いのち)が、本当はどのようなものなのか、私たちは知り得てはいない。
そもそも「知る」行為は脳の役割で、死に関しても、経験としては知らない。脳にとっては、今回の人生がはじめての生だからだ。扱えるのは、情報としての生と死のみである。
我々の思考は、他者の死にゆく様子を見て学習し、自分のいのち(肉体)が限りあるものだという「情報」を知っている。しかし同時に、死自体へのリアリティは全く持ち合わせておらず、この自分の日常が永遠に続くような、錯覚に近い意識も持っている。この矛盾からも、思考が生の「全体」を考えることは不可能であることがわかる。
「生が無意味になっているので、何かを気ままに思い描くのです。」とクリシュナムルティが言うように、考えの世界では、生そのものは扱いきれないので、それにまつわるイメージを扱うしかない。生自体を、思考は意味付けることはできない。だから、誰もが過去の経験の記憶から思い描いた自分の「イメージ」を生きているのだ。

(この日は、「3分間のシルエットの瞑想」を実践した)
目を閉じて、自分の身体の輪郭をシルエットとして意識した後、その中核をさがす。中核へのダイビングが深まると、シルエットが消滅して、核だけが残るはずである。

シルエットの消滅とは、自己つまりアイデンティティの崩壊を意味している。それは、思考が何よりも怖れるものであるが、残されたその「核」こそが、生まれることも、死ぬこともない、はだかの生(いのち)そのものである。それが現れている「場」が今の肉体の自分なのだ。
この生(いのち)には、思考の記憶から来るのではない、個別的な知性を持っている。この知性には、前世の記憶の薫製のような香りが残ることがある。
また、核の部分に流れていると感じる時間は、意識の深度が浅いほど短く感じ、深いほど永く感じられる。



2012.12.2(大阪市立総合生涯学習センター)
クリシュナムルティと神智学
神智学協会の指導者リードビーターに「利己心のかけらもない少年(14歳)」として発見されたクリシュナムルティは、その後(34歳)、「真理に至る道はない」と突然言い放って同協会を見捨てた。そして、90歳までの残る生涯を孤独な探求者として生きた。
クリシュナムルティの思想の独自性は、方法や知識体系を切り捨て、自己と徹底的に向き合うことの奨励にあるといえる。
それでも、神智学協会を見限った彼の、あえて明示的に言及しない言説の「空白」部分に神秘主義的思想が隠されているのではないか、と推測できる。
神智学の基本的教義を知ることは、クリシュナムルティの思想を一層深く理解する一助になろうかとおもう。


2012.9.23(ラルジャン ド ポシュ)/ラルジャン ド ポシュ主催

『思考は生(いのち)を知らない–クリシュナムルティと共に考える』
出版記念ミニ講演
実用思考と不実用思考

[イベント報告]
実用思考と不実用思考

 ここでいう実用思考とは、物の世界において「獲得」、「移動」、「変質」などに関わるような思考である。この思考の基本的な機能としては事実を対象に考える。さて、事実は、見掛け上の姿だから必ずしも真実ではない、という点に注意がいる。
 この思考は、変化(発展)を計測するのが得意な特徴があり、そのもっとも純粋なかたちが数学となるのである。自然科学や経済学は数学との関係が深いのはその意味で当然である。
 この思考をベースに生きていると、計測出来るもので「満足」や「幸福」を量る傾向がつよくなる。また、常に成長発展していなければならないという強迫観念に支配されやすく、現状を否定しがちである。
 また、現実世界の現象にただちに反応する思考の傾向から、感情に端を発した、あるいは感情への働きかけが実用思考を産みがちなので、経済や政治という営みも情に流れやすい。

 不実用思考は、「非実用」ではない。全く役に立たないのではないが、精神の世界における創造、消去の思考であって、生命エネルギーの理性(霊的実在)に根ざした真実を対象に扱うので、それがもたらすものは数値で評価できないのである。頭脳の思考では意味不明なものになる。

 不実用思考が作動する不可欠な条件は頭脳活動が沈静化していることである。実用思考に対していえば、「超越的な思考」となるので、数値はもちろん、具体的な指標もみえないので成り行きに任せる思考とでもいえる。これを思考と呼びうるのならば!

 この思考が深まると、やがて不可視の運命誘導線の存在を感じるようになるだろう。そして、その線上に乗っかってあなたの全てを委ねることができるなら、何がおこっても安心の人生を歩んでいけるという確信が芽生えてくるはずだ。成り行きにみえるものが、実は、自分の意志と自分を創造した聖なる意志との協力においてあらかじめ取り決められた学習課程であると判明するだろう。


「あなたが深い沈黙の中にじっととどまり、その働きに気づいたとき、
頭脳の言い分がいかに機械的で幼稚なものか、理解出来るはずです。」

アナーキー・タケ

2013.9.23 講演の様子


2012.5.19(京都嵯峨芸術大学) /森本研究室+江村研究室主催
NPO K's Point+emuralabo.net
『Krishnamurti を観る;映像+音+コトバ』 
[不安の時代をどう生きるか]
(1) 「不安なく生きる秘訣」 講演(森本 武)
(2) 『Krishnamurtiを観る』上映&トーク(江村耕市)


2012.1.22(大学コンソーシアム京都)
わずかなお金と最小の不安で生きる呑気な暮らし
 
−J. クリシュナムルティの思想を生きる
あれこれ考えると不安の素が増える。ざわついた頭は、無意味な行動に走りがち。無駄にお金と時間がうばわれる。
空白の頭で生きると、自動運転の電車みたいに、楽に暮らせるはずです。
こういう考え方、信じられますか?


2011.12.11(高槻市民会館)
クリシュナムルティは沈黙したスピリチュアリズム—9つの大きな疑問
Q1:生は、死までの短い営みにすぎないのか。
Q2:死んだら、「私」は完全に消えてなくなるのか。
Q3:死後、生前の記憶はどこかに保存されるのか。
Q4:死後、罪深い人間は地獄に落とされるのか。
Q5:幼児で亡くなる子供はなにかの罰なのか。
Q6:死んだら霊になるのか。
Q7:生まれ変わりは本当にあるのか。
Q8:死んだ親友と、あの世で会えるのか。
Q9:運命はあらかじめ決まっているのか。


2011.7.17(大阪市立総合生涯学習センター)
生命エネルギーに出合う
あなたを生かしている生命力。
それは「考え」でも「イメージ」でもない実在している力です。
この力が心臓を、脳を、動かしているのはあきらかですが
その力を、単独に取り出して、認め、
それを意識的に操作することは可能なのでしょうか。


2011.3.13(大学コンソーシアム京都)
対話的講演会
「働く」と「生きる」という2つの動詞をめぐる問題
生きるために働くのか。
生き甲斐のために働くのか。
働かないで生きる道を本気で突き進むのか。
とんでもない「働く」を発明したらどうか。
なんてことを考える時間を持ちたい。


2010.9.19(大学コンソーシアム京都)
疑って生きると暗い。でも、疑って、疑って、疑って生きると明るくなるのはなぜか。


2009.8.8(マニホージュ/神奈川)/マニホージュ主催
クリシュナムルティの瞑想法
クリシュナムルティは、瞑想は人生に最高の生の輝きをもたらすといっている。しかし、それは決して、特別なことではなく、ただ自律的に生起する。意図をもって求めるのではなく、自己を丸ごと放棄したときに、瞑想はやってくる。


2009.6.28(六館堂/京都・二年坂)/六館堂主催
自己同一性滅失に向けた瞑想導入講演会―「私」は「記憶」にすぎない。
聞き手は、あたかも自らが思考しているかのごとく、話し手の声をとおして、思索の断片がわがままに躍動しているのを感じながら、やがて一定の方向に収束していくさまを体験するだろう。


2009.2.22 (京都嵯峨芸術大学)
「不自由」を考える ―クリシュナムルティの思想に学ぶ<生の正体> 
不自由だけを味わっているひとたちに、是非聞いてもらいたい。「不自由」をよく理解すれば、それの無い状態として、「自由」がみえてくる。


2007.9.9(京都嵯峨芸術大学)
J.クリシュナムルティの思想に学ぶ ―不安の終焉
常につきまとう不安からの回避と自己の解放を求める闘いが人類の営みと共に常に存在してきた。クリシュナムルティの指摘する「思考は時間である」は、生と不安が必ずしも不可分ではない手がかりとなる。


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