過去の講演会

2009.6.28  六館堂(京都・二年坂)/講演者:森本武(K's Point主宰)

演題:自己同一性滅失に向けた瞑想導入講演会

『「私」は「記憶」にすぎない。』

 ―J. クリシュナムルティの洞察を追体験する


3. 質疑応答

◆反省をするとき、「客観的に自分を見る」というが、その行為も思考の中で行われていることなのか。“目撃者”の行為は、その段階よりも深いものか?
(註)目撃者とは、我々の意識の中にあって、思考の全活動を距離を置いて見つめているような視座。

瞑想は、「完全理解」と言い換えられる。思考による断片化を回避できる、全体性をカバーした理解である。反省は、どれだけ真面目な心情によるものであれ、思考の戯れにすぎない。基本的に自己の確認、救済という作業であるから、自己という中心性を一層強める。結果として、自己憐憫の情に支配されがちで、改善は実現しにくい。

◆夢や目標を持つ、という“理想”の存在をどう捉えればよいか。
それらがないと、むなしい気がするが・・。

どういう状態になれば、「うまくいった」と感じるのか(何をもって「成功」とするか)、そのとらえ方に個々人の意識の水準が表れる。人生の真の目的とは何か。世俗的な名声か、金か、色恋の成就か。そこを明確にすること。しかも、直ちにそうすることが求められているのではないか。明日は観念の中にあるだけである。明日では遅い。その最大の問題理解を娯楽にかまけて、明日、来月、来年とおくらせている人類に不安は解消できない。

◆意図して生み出すところに瞑想はない、というが、芸術作品の制作に没頭しているとき、自己の感覚が消えて、瞑想状態になるような時があると思う。
それは瞑想とは呼べないのか?

ただ喜びの中にいるだけなら、それは瞑想といえる。けれども、自己の利益や評価を求め(思考し)て創造されるものは品位に欠ける。その行為自体も精神集中ではあっても瞑想ではない。

◆思考は対立的であるが、瞑想には、それがなく、そのままに理解をもたらす。

原則的に、思考は、比較や対立をもとに理解を形成する。それとは逆に、全体性を一気に見るのが瞑想であり、そこには知識への依存もなければ、権威への傾倒もない。
権威に守られた世界(=権威を通過してきたもの)の代表例は学校教育である。いかなる近代国家でも、知識を公的に精査し、選び抜いた知識に権威を与え、それらに限って教育現場で供与する仕組みをつくり、守っている。

◆思考者(行為者)を、瞑想によって<本当の私>=(目撃者)が観察したとき、またすぐに思考者が動きはじめる。

目撃者は、思考者を支配できる。しかし、基本的には関与しない。
目撃者に終わりはない。目撃者になり得たら、肉体をもつ人生の意味はなくなる。
絶望に行き着いたとき、思考は機能不全に陥り、停止する。それは、とてつもないパワーとエクスタシーをもたらす。その時こそ、目撃者に出会うチャンスであるが、ほとんどの人は、絶望に落ち込むまえに執拗な思考の力に助けを求めて当面の痛みを軽くすることに最大努力する。

◆目撃者があることで、日常を深く生きようという自信ができた。

大部分のひとは、10回に1回程度の喜びを糧にして、この苦労の多い人生を生き抜いている。
エネルギーとしての生命は、一定の生命場における全体性そのものであり、それを知っているのは目撃者だけである。
思考は身体とつながっているので、生命の全体性を理解しないばかりか、身体の変化に日々影響を受けている。
そのつながりが切れることを、死と呼ぶ。死は、大きな変革をもたす“現象”ではあるが、それをもって、自己の根本問題を解決できる契機にはならない。
このエネルギーとしての生命の全体性を理解したとき、生き続けることへの執着は消えるだろう。

◆言語は無力であるというが、ひとは言語を使って交流するしかない。

言語は、時間の中にあって過去の限定された経験を引きずっている。そのため、最も根底的な存在である「愛」とか「幸福」なども、卑小な概念としてしかとらえられない。
どんな言葉でも、個々人の中での定義はバラバラで、常に身勝手に解釈される。それが言葉の弊害である。
もちろん、大きなくくりでは言葉を分類することはできる。例えば、愛は憎しみとは違うもので、あたたかくて、安全なものというイメージがある。けれど、それは愛のイメージを思考が部分的に、わがままに粉飾しているだけである。
目撃者の視点から見れば、愛はそのようなイメージのかたまりではなく、冷たく、味気のない無味なものにみえる。だけれども、「無条件に安全」という絶対の確信の満ち満ちた状態でもある。

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