過去の探求の会

2017.3.19(池田文庫 広間)
『生の中の行動』
社会の中に実現している高度な交通手段や通信手段が現代の人間の行動に大きく影響を与えている。
個の内的問題としてよくとりざたされるのは、感情や想いにとらわれて身体を動かすことに消極的になる態度からくる閉塞状況である。
生は、人間の生は、基本的に行動を尊ぶものとしてあるのか。行動の理解をとおして、生の真相をさぐりたい。


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016.4.17(兵庫県民会館)
 『わたしのミッション』

隠されているものを探すには、それが実在することをあらかじめ知っている必要がある。
あなたにほんとうに何かの才能があるのか、運命の人がどこかにいるのか、致命的な病魔の種が潜んでいるのか、分からない。
なによりも、あなたは、なぜ、この地上世界において、息をし、口を開き、手足を動かし続けていなければならないのか。あなたという生は、何をしなければならないというのか。


2015.4.19
(池田文庫 広間)

『私の中にいる悪魔』
 「ブラジルで1匹の蝶がはばたくとテキサスで竜巻が起こる」というバタフライ効果を信じるひとがいる一方、「あまりに微小な変化は、やがて減衰するだけだ」という理解を常識とするひともいる。
微細な力は、往々にして鈍感な思考には拾い上げられないものである。そこで、認識力に限定されたわれわれの存在を変容させる不可解な要因が、確実に働いていることを自分では否定できない。
仮に、あなたの中に、想像を絶した形の「悪魔」が存在しても、その姿を覗き観る力や、その声を聞く力がなければ、その実在性は確認できない。「悪魔」が子供だましの空想的な名称にすぎないと確信する者は、どのように、その認識を形成したのだろうか。


2013.12.1(兵庫県民会館)
SEX
愛を特別なものにし、神秘化し、卑猥化している要因のひとつがセックスであるといえる。
人間は、いまや「生物」、「動物」にとどまっていない。人間にしか成し得ない、かくも偉大な文明、文化をうみだしてきた。しかし性に根ざしたエネルギー、欲望、あるいは娯楽活動は、原初的な生理活動として人類一族の存続繁栄を支えている。
セックスについて論じ、考察する場は限定されており、それゆえに、その実体が個人の意識の中に幽閉されがちである。愛とセックスの関係も主観の問題でしかなく、共有しにくいことから、様々な不幸が生じているようにおもえる。


2012.7.22 (神戸市勤労会館)
『災難』
災難の多いひとは、単純に不幸なひとか。
それは、気まぐれに我々の生活を襲う、恐ろしいだけの存在なのか。
人間の手に負えない災いを前に、改めて、つよく生を実感することもある。
災難を、たくましく生きる力に取り込んで、
あなたを再生させることはできないのだろうか。


2011.10.30(ラルジャン ド ポシュ /カフェ・レストラン)
『運命と自由意志』


2010.6.27 (関西セミナーハウス 別館 和室)
『聖なることについて』

[ノート]
教会で読む聖書、お盆のお墓参り、樹齢数百年の御神木や、いつ生成されたか分からない巨大岩への崇拝。「聖なること」の実体は何処に存在するか。
 いくら探し求めても何処にも見つけられないのに、その自覚のないときに、ふと、やってきたりする。それは私たちの意識とは無関係なのか。「出会いたい」という意志が遠ざけてしまっているのだろうか。いずれにせよ、歴史的に人間は、ずいぶんと長い間「聖」を追い求めてきた。
 暗闇のなかにいると、われわれの意識の中に小さな光をみたような体験をする。
その光は「聖なる」性質を帯びたものなのか。人類の誕生期から、その光も存在してきたのだろうか。いまいちど静寂と闇の世界に身を置いて、自分の目で探ってみる必要があるだろう。


2009.12.6 (京都嵯峨芸術大学)
『信じる』
「友達を信じる」と言えば、自分を裏切らない者として信頼するということ、
「話を信じる」というのは、疑いがない事実だと信用すること、
「幽霊を信じる」はその存在を認めるという意味になる。
ことばで「信じる」というとき、私たちはそれにいくつかの意味を与えて使う。けれど、それらは強い確かさを心に感じるという点で共通している。

信じる思いが強ければ強いほど、それが「ちがう」と判ったとき、人はひどく落ち込み、場合によっては深い絶望の中にとじこもる。
では、一切を信じることなく生きられれば安全で、幸せなのか?
どうして「信じる」という行為は私たちにつよい影響をもたらすのだろうか。
そこに何らかの力が働いているとすれば、その正体は一体何なのか、検証を試みたい。


2009.2.14 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)

『疑って、疑って、疑って、生きる。』
ほとんどの人が信じるものを求めている。
それを求めて、だまされ、落胆し、絶望している。
疑うことは、迷いではありません。疑うことは、不安定なことではありません。疑うことは停滞ではありません。
疑うと疲れる、とひとはいいます。もし、あなたが疑うことで疲れ、生気を失ったとするなら、それは疑い足りなかったからです。
疑う力を、深く考えてみましょう。それは、どんな種類の力なのか。どこからやってくるのか。何のためにそんな作用が存在するのか。


2008.8.10 (京都嵯峨芸術大学)

『「狂気-CRAZY」について』
生きていながらも、生きている張本人が自分を失ってしまう狂気は、人間としては死に匹敵する。その意味で、「社会が狂っている」は、「社会は死んでいる」と言い換えられるだろう。
狂気を判定するのは医学ではなく、「立場」である。殺人がなされた場、あるいは殺人を裁く場において、その正当性や狂気性が定まる。戦争という大量殺戮も正気で正当な事業になりうる。


2008.2.17 (京都嵯峨芸術大学)
『葛藤 conflict 』
より良い生活を求めて、学び、働き、耐える人間は、葛藤の渦の中で苦悩を深めている。自己の内部でひろがる葛藤は、同時に、社会のレベルでも、他者との競争や対立という形で、深刻な様相を呈している。
われわれは、意識の内と外において、種々の葛藤に引き裂かれ、対立と分裂の日常をごく普通の時間として生き延びているのである。

▼クリシュナムルティの言及

葛藤
「葛藤、その発生について話してきました。世間で、あらゆる場所で、いろんな形の葛藤が、ますます増えています。
葛藤の原因は、自己の内部だけでなく、われわれの住む社会の内部で生じる常なる対立にあります。
社会とは、われわれ自身でつくったものです。それはあまりにも明々白々です。産まれたときから死に至まで常にわれわれは、ありとあらゆる種類の破壊的あるいは建設的な態度や、偏見や意見を持ちながら、闘い、競争し、葛藤をかかえているからです。
こうして生きて来たのは今に始まったことではなく、きっと過去250万年間、そうやってきたのでしょう。そして、同じ調子、同じ形で、今もやりつづけているのです。戦争、それも今まで以上に破壊的な戦争、および国内の分裂。民族主義、宗教的分裂、家族の分裂、宗派的決裂などなど。」

LAST TALKS AT SAANEN 1985, J. Krishnamurti,
VICTOR GOLLANCZ LTD, 1986



2007.8.4 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)
『「今」を考える。』

時間とは不思議なものです。時間の中に生きているわれわれは
時間を奪われたら生きる場を失うのですから。

とりわけ、「今」は、不思議な時間です。
それ自身を単独で取り出せないのに、これがなければ生きてい
る実感はほとんど失われるのですから。
一番よく知っているはずなのに、うまく付き合えていない存在
でもあります。

 「今」は、人生の最小単位でしょうか?
 「今」は、消えつつあるものなのでしょうか?
 「今」には、何かを収納するような隙間はないのでしょうか?
 「今」は、動いているのでしょうか?
 「今」は、私とどのように関わっているのでしょうか?

▼クリシュナムルティの言及

時間と持続
「時間は、順序であり、心理的なものである。小さなものが大きくなる、牛車がジェット機に進化する、赤ん坊が大人に成長する、といったように、時間は、発展をしめす。

昨日は、今日を通過点として、明日につながっているように、過去は現在を貫いて未来に向かっていく。これは一つの動きであって、決して3つの動きではない。

種は生長して樹木になる。
また、心理的な進行のプロセスが存在するが、それが時間を表している。「私」は「これ」で、これから「あれ」になろうとしている、といった具合である。われわれは、時間を通過点、あるいは手段とみなしている。これまで「在ったもの」が、これから「在りうるもの」になっていくというプロセスにすっかり馴染んでいるのだ。だから、思考は時間である、といえる。
「在った」という考え、「在るだろう」という考え。現実と理想の間を思考がつないでいるのである。思考は時間の産物でり、思考プロセスなしには、時間はない。意識が時間の作り手であり利用者なのだ。
           
古いものが新しいものを認めた。その時、それはほんとうに新しいのだろうか。古いものは、自らの投影物しか認められない。新しい、と呼ばれるかもしれないが、実は、新しくない。
新しいものは認識されない。認識不能、連想不能の状態にある。
古いものは、自己の投影を通して存続するが、新しいものを知ることはできない。新しいものが古いものに翻訳されるかもしれないが、新しいものが古いものと共存することはありえない。
新しいものを経験するためには古いものが不在でなければならない。経験と、その表現は、思考であり想念である。思考は新しいものを古いものの見地から翻訳する。持続するものは古いものである。古いものは記憶であり、言葉であり、それは時間である。」

Commentaries On Living, J. Kurishnamurti
Edited by D. Rajagopal/ Krishnamurti Foundation India



2006.2.18 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)
『J. クリシュナムルティと3つの文−その3 <価値 value>』

▼クリシュナムルティの言及

価値を大事にするのは人間の特徴のひとつである。
子どものときから、われわれは、自分のためになる、確かで根源的な価値観をもつようにいわれてきた。ひとには、それぞれに、長年培ってきた目的と意思がある。当然、価値観は、各々違っていて、欲望か、知性によって形成されている。幻想であるか、快適なものか、慰めになるか、事実であるか、そのいずれかである。 
この価値観が、明らかに、ひととひとを引き離している。それは、当人の偏見や意識によって、貴いものになったり、いやしいものになったりする。
価値観の如何を問う以前に、なぜひとは価値観をもつのだろうか。その結果なにがもたらされるというのだろうか。

「価値」(value)の語源は「力」であり、「武勇」(valour)という語に由来している。力そのものは価値ではないが、弱さに対立する概念になるとき、それは価値をもつ。「力」は、本来の性質ではなく、社会の圧力の結果なのだが、明晰さのエッセンスなのである。
明解な思考は、偏見がなく、歪みがない。歪曲もない観察である。力や武勇は、植物を育てたり新種の動物を生み出すように、つくられるものではない。力は、結果でもない。結果には原因があり、原因は弱さをもたらす。弱さは、つまるところ、抵抗か泣き寝入りになるだけだからだ。
明晰さには原因がない。それは、効果でも結果でもない。思考と、その全活動の純粋な観察こそが明晰さである。この明晰さは力そのものである。

Letters to the Schools, Vol.1, pp. 102-4, J. Krishnamurti,
Krishnamurti Foundation Trust Ltd., 1981

 

2005.8.6 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)
『J. クリシュナムルティと3つの文―その2 <霊性 spirituality>』

▼クリシュナムルティの言及

あなたがたは、自分の霊性の成長を、他人に全面的に依存しています。自分以外の者が、あなた自身を自由にしてくれるということなどありえません。
みなさんは、どれだけ成長したか、霊性のレベルがどの辺にあるのか、といった判断を、他人に指摘してもらうのに慣れてしまっています。なんてバカげたことでしょう。自分の清廉さを知っているひとが自分以外にありえるでしょうか。
この2年間、この事実を、ゆっくり、慎重に、辛抱づよく考えてきました。そこで、いま、自分が代表の立場におかれているということから、この教団を解散する決意にいたったのです。
みなさんとしては、別の組織をつくって、誰か他のひとに期待をよせるのもいいでしょう。そのような事柄については、わたしには関心はありません。ひとを閉じこめる檻をつくったり、その檻を飾り立てるのにも関心はありません。わたしの唯一の関心は、完全に、また無条件に、ひとを解放することにあるのです。

※1929年8月3日、3000人の信徒を前に、クリシュナムルティが教祖として、「星の教団」の解散を、突然に告げた演説の一部です。

Krishnamurti: THE YEARS OF FULFILLMENT, Mary Lutyens



2005.5.14 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)

『J. クリシュナムルティと3つの文―その1 <光 light>』
日常は、自宅の見慣れたカーテンのように、その存在は認められていながらも、愛される機会もなく、忘れられている。
探求は、忘れていることを思い出し、よく見ていなかったものを凝視する行為である。
毎回、クリシュナムルティの一文を取り上げゆったりと深く探求したいと思います。

▼クリシュナムルティの言及

我が身の光となることは、他のすべてのひとの光になることでもある。
我が身を光とすると、挑戦や感応から精神が解放される。そのとき精神は完全に目覚めていて完璧な集中状態にあるからだ。この精神集中には中心はない。意識の活動している自己がない。だから、そこには境界がない。
自己という中心があるかぎり、その強さの程度、快不快の違いはあるものの、挑戦や感応がどうしても生じてくる。 
適していようがいまいが、楽しかろうが悲しかろうが、そのような中心がある限り、"私"には挑戦したり、反応したりする意識が存在している。
その中心は、我が身における光には成り得ない。その光は思考がつくった偽りの光であり、多くの影を持っている。  慈悲は、思考の影ではなく、光そのものである。それは自分のものでも誰のものでもなく、普遍の光なのである。

Krishnamurti's Journal, J. Krishnamurti
Hrper Collins, 1982



2004.8.7 (マニホージュ 神奈川県秦野市/マクロビオティック料理教室・レストラン)
『考える力・生きる力』
「考える力」は、とても尊重されている。
学力、発想力、問題解決力、構想力などと呼ばれて、これらに優れた人は文句なく優秀な人間とみなされる。が、この力の作用と、人生の質の関係はどう理解されているのだろうか。
「考える力」=「生きる力」なのだろうか。
「考える力」が弱くなったり、失われる時、つまり、考えられない時、考えが出てこないとき、大事なことが思い出せない時、ひとは困惑する。こういう時、生きる力は衰弱しているのだろうか。


2001.12.22 (京都嵯峨芸術大学)
『「思考」について―世界で起こっていること・自分に起こっていること』
哲学的に思考を解明するのではなく、だれか自分以外の人間の思考に関する意見や態度を問題にするのでもなく、自らの思考をみつめ、その役割や性質について語りあった。
世間と自分がまったく別のものとして存在するようにみえるのはなぜだろうか。その時、思考はどういう作用をしているのだろうか?


2000.8.6 (関西セミナーハウス・清心庵)

『感情』
感情は、様々な不幸の原因を生み出している。人間は感情によって歓びを味わい、自然や芸術に感動する。一方、われわれは、感情の変化に翻弄されて理性的に判断できず、惨めな結果を招き入れることを繰り返している。感情の作用をみつめる。その変化を観察する。その結果、感情の存在理由や動きから、意識の性質の一面が理解できるのである。


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